ヅレブロ  日々の徒然~音楽、映画、ドラマ、キャンプ~

アラフォー男子inHokkaido。徐々に記憶力が落ちてきたワタクシの備忘録的ブログ。もし、だれかのやくにたてばとてーもしあわせです。これから書きたいことを考えてタイトルを変えてみました!!

集団行動 「キューティクル」

最高傑作かどうかは僕が決めるようなことでは全く無いですが、間違いなく今までで一番好きです。僕が。マイ最高作。

3ヶ月連続リリースの第2弾です。第1弾が今までのバンドサウンドから一転、打ち込みの楽曲だったのはビックリしましたが、今作はタイトル「キューティクル」。これは間違いなくとらえどころのない歌詞で、集団行動王道のバンドサウンドに違いない!!!

 

ハイ!違った!!!

 

そもそも、「集団行動の王道」というのがバンドサウンドじゃないんでしょうな。王道という表現が彼らを全く表していない感じがハンパない。

 

前作「ガールトーク」に続き、今作も打ち込み。こうなると第3弾はどうなるのか。そのまま打ち込みか?バンドか?オーケストラか??ゴスペルか???

 

でも、彼らはひねくれたことをやろうとしているバンドじゃないと思います。結果として予想を裏切ることはあっても、彼ら自身はバンドとしての表現欲求に素直なバンドであり、真部さんはとても賢い戦略家ではあるのでしょうが、それ以上に自分の感じる本能を最優先する方なのだろうと思うのですよ。

 

そして、この「キューティクル」。最初に書きましたが、本当に素晴らしい1曲です。もの凄く良い。

メロディ、トラックが良いのは勿論ですが、本当に毎回毎回書いている気がしますが、ヴォーカル齋藤さんの声が一段とすんばらしい!!!この方は底なしなのでしょうか…。前作でもググンと良くなった感じがしたのですが、本当にすごい。伸びしろしかない。

先日ちょっとしたきっかけで、普段聞く機会はあまりないのですが、声優さんの悠木碧さんという方の「ボイスサンプル」というアルバムを聞きました。これがとっても面白くて、声優さんが歌を歌う意味あいそのもの、というか、声優さんにしか作りえないアルバムでした。曲ごとにものの見事に歌声を使い分け、まさに十人十色。曲ごとの主人公をたった一人で演じ分けている。何故このようなことを書いたかと言うと、集団行動の「キューティクル」を聞いて、ふとこのアルバムを思い出したんです。悠木さんは別の主人公を演じ分けていたのですが、集団行動の齋藤さんは、一人の人間の持つ様々な表情・感情を、非常に上手に曲ごとにさらけ出して(暴き出して?)いる印象があるんです。どんな人だって、良い面もあれば悪い面もある。表に積極的に出す面もあれば、可能な限り隠そうとする面もある。自分では気づいていない顔だっていっぱいある。その様々な人の側面を、とてもフラットでナチュラルに作品に乗せることができる。悠木さんが十人十色であるなら、齋藤さんの歌は、一人十色とでも言うのでしょうか。そして、フラットだからこそ、ある種の残酷さも持ち合わせているように思います。それがこの曲には出ていると思うんです。

 

僕はどうしても曲を聞きながらだと一部しか歌詞が入ってこないので、改めてきちんと読んだのですが、この曲について、具体的に「こう」というのは僕にはわかりませんでした。でもとにかく、凄い歌詞です。

 

まず

 

聞いてくれキューティクル

消えてくれキューティクル

 

という歌詞が、歌詞を覚えられない僕でも一回で頭をグルグル回ってくる。

 

そしてどういうこと??という気持ちになる。

そもそも、キューティクルというのはわかっているようでよくわからない言葉で(これは相対性理論時代からこういうところをつくのはすこぶる上手だと思います)。髪をツヤッツヤにしてるのがきっとキューティクルなのだろうけど、結局なんだと言われれば全くわからない。語感も含め、どこか謎めいた感じもある。

 

この曲は、とにかくその「キューティクル」に消えてくれ、とひたすら言いまくる。

キレイなもの、キラキラしたものを拒絶し、髪が傷もうが、ビューティフルを置いていこうが、とにかくキューティクルを削り、そぎ落とし、消えてくれ、と願う。

結果、最後には

 

聞いてくれた 消えてくれた

優しいキューティクル

 

と終わっていく。

なんだろうか、どうしてこんなにもキラキラを拒絶するのか。優しいキューティクルは優しさゆえ去って行ったのか。

 

何ともいえない感じがある。ちょっと読後感の悪い感じ。

 

先ほど触れた歌いかたについても、ポップで軽快なような歌声なんだけど、どこか愁いがある。

僕にはこれが何を示しているのかは正直わからないですが、凄く勝手ながら「わかる」気がするんです、この歌詞。自分の中にあるものの気がする。きっと齋藤さんの歌声に感じた印象は、そこにあるんだと思います。自分の中の何かがとてもリンクしたり、共鳴したりしているような。

 

今更相対性理論を持ち出す必要もないのだろうとは思いますが、その点が大きく相対性理論と集団行動が違う点です。

僕の中で相対性理論は、どこまでも「聞く」音楽でした。勿論どちらが良いというものではないです。

 とにかく、何度も何度も何度も聞いて、結果どんどんその沼にはまっていくような曲でした。僕にとっては「クレーター」もそういう曲でしたが、その沼はどんどんと深くなっているように思います。

 

この後の第3弾、そしてきっとその先にあるアルバムは、一体どんな扉を開けてくれるのでしょうか。楽しみです。怖さすらあるほどですが…。

 

 

キューティクル

キューティクル