天才とは
天才と呼ばれる人たち。特に「芸術」や「表現」という分野にくくられる「天才」と呼ばれる人たちにとって、今の時代の抱えている空気・社会はいかなるものなのだろう。それは当人にしかわからないし、その日その日で大きく変化するものなのかもしれない。
今の段階で一ファンが書けることがあるのか、そもそも書いて良いのかはわからないけど、あくまでも僕自身の備忘録として、気持ちをととのえる材料として書かせて頂ければ、と思う。
というか、僕が今書き残したいのは、津野さん個人ではなく、「才能」というものについて、だ。
確か、東日本大震災の際、草野マサムネ氏が、心を病んだという記事を目にした。
きっと、巨大な悲しみと、どうしても一対一で向き合ってしまうのだろう。
巨大な才能というのは、ものすごく繊細で、同時にもの凄く図太く、我が儘なものなのだろうと思う。加速も最高速も併せ持っていて、且つ超繊細なハンドルを持つモンスターカーを体内に持っているようなものなんじゃなかろうか。
それは、自分のような、うすらぼんやりと日々を過ごしている人にとって、推察はできても、その枠を出ることはない、あまりにも未知な領域だ。
その豊かすぎる感受性が日々を埋め尽くしている状態というのは、一体どんなものであるのだろう。
その才能が日々の暮らしの中で抱える絶望とは、どれだけの重さがあるものなのだろうか。
きっと、だからこそ人はつながりを持つ。そのつながりこそがまさに「セーフティネット」であるのだろう。
ここのところ、多くの才能あふれる方々が旅立たれているのは、当然ひとつのくくりで「コロナ」とか決めつけられるものでは無いだろうし、それは失礼だろうと思うのだけど、才能をはばたかせる場や、切磋琢磨する関係性を失うこと、そして、今まではありえなかった、「今まで考えなかったことを考えてしまう時間」が生まれたこと、はやはりとても大きいのではないかと思う。
そして、その大きな才能を持ち、僕らの日々を豊かに彩ってくれている人は、この世にまだまだまだまだいっぱい居る。
多くの才能が、ここで悲しい決断をしないように、少しでも一人一人ができることは、否定軸では無い、肯定的な社会。優しい社会をつくりだすことだ、と僕はずっと思っている。それは大それたことではなく、日々の自分が作り出す関係性から繋がっていくことで、むしろそれこそが全てだと思う。
SNSを例に出すまでもなく、自分の人生には何の関係も無いであろう、他者の不倫やちょっとした失敗をあげつらうことがとても増えた。それは元来、当事者以外には関係の無いことだ。
そして、その批判をする人々も、その批判を駆り立てる何か、「渇望」か「欠落」か「寂しさ」か「競争社会の敗北」か、とにかく、その行為が自分を立ち続けさせるために必要な何かになっている人々がいるのだろうと思う。そして、僕もそれを否定的に結局書いてしまう以上、その一員でもあるのだろう。
それを、ちがう形で、肯定で満たす社会というのはありえないのだろうか。夢見がちな理想論だろうか。でも、それを肯定することからしか、生まれないものがある筈だ。
何か一つでも、否定を辞めて肯定を。決して大それたことじゃないくて良い。否定していた自分も否定しなくて良いのだから、その肯定から始められることが、多くの才能を救うような気がする。
そんなことを、考えて、才能に満ちた音楽を聞いていた。
僕らの暮らしを彩る、多くの才能に敬意を表して。