氷河と溶岩と私 ヨハンヨハンソン 「オルフェ[album]」
アイスランドの音楽。
それはビョークがデビューでデビューして、次のポストのハイパーバラッドでガツーンときた時でも、シガーロスがよくわかんない曲名で天国みたいな音を鳴らした時でも、ムームがムームー言った時でも、僕の中では常に「氷河と溶岩と私」の音楽です。
完全にイメージです。
アイスランドに私は居るでしょうが、氷河と溶岩があるのかはしりません。
こうなったら、現段階では知らないまま生きていきたい(ご自由に)。
とにかく、バンドサウンドだろうが、打ち込みだろうが、シンフォニックなバーン!だろうが、僕の中でアイスランドのアーティストは、どんな音を鳴らしていてもそこには氷河と溶岩、冷たいあっつい、冷静と情熱のようなアレとコレが対極ではなく、一つのものとして鳴っているのです。
まさに、氷河の冷たさ(これは、ひんやーり!ちゅめたーい!!ウフフ!!みたいなポップなものではなく、背後にあるのは「死」です。冷たく冷酷で、とてつもなく美しい「死」)と溶岩のすべてを溶かすような暑さ(これは、アチチ!あっちゅーい!ドゥフフ!!みたいなものでもヒロミゴー的なアチチアチでもなく、こちらにあるのは「血」です。何者よりも熱い燃え滾る血)の音楽。
氷河と溶岩、死と血の音楽。
ちなみに、ヨハンヨハンソンさんはこのジャンル分けを安易と嫌った(と、ほかの方のブログに書いてありました)ようですが、これは「ポストクラシカル」と呼ばれることが多いジャンルです。僕にはポストの意味すらよくわからないのですが、僕のポストクラシカルの解釈は、「本当の意味での現代のクラシック音楽」です。本当にバイオリンがある場所にあるべき楽器はバイオリンなのか、その時代に多くの今も演奏されているような音楽を生み出したアーティストたちが、もし、今の時代に音を鳴らそうとしたなら、そこに配置される楽器は何なのか。クラシックをそのまま鳴らすのではなく、そのアーティストたちの衝動や情熱を今にそのまま持ち込んだ時のクラシックとはいかなる音になるのか、の答えの一つみたいなものが、ポストクラシカルだと勝手に僕は思っています。
ここで慣らされている音は、ひたすらに孤独です。そしてすぐその背後に強烈な「死」を感じさせます。でも、なのか、だから、なのか。この音楽は極上の美しさをまとっているんです。ひたすらに寂しく独りでありながら、何にも代えがたい「美」を放つ音楽。
1曲目「フライト・フロム・ザ・シティ」は短いフレーズのリフレインが続きます。さもミニマルなテクノミュージックのように。テクノミュージックはその短いフレーズの繰り返しに、わずかに音を加えて輝かせていくことで、キッズやらミッツやらマングローブやらを躍らせていきますが、この音で踊るのは「血」です。刻むビートは心臓そのものの音です。
生命と死、べったりとこびりついて離れない「終わり」が、この生を圧倒的に美しく、永遠に印象付ける音楽。
ただ、ただ、美しく孤独なアルバムです。
物凄く寂しい音のようですが、不思議と温かさをはらみます。
生きているから、なのか、その先が見え始めているからなのか。
ヨハンヨハンソンさんは、今年2018年の2月にドイツ・ベルリンのアパートで亡くなりました。
この才能の先を、是非聞かせてほしかったですが、このアルバムにはその命がものの見事に鳴らされています。